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東京高等裁判所 昭和55年(ネ)2380号 判決

昭和五五年(ネ)第二、三八〇号事件控訴人、

同年(ネ)第二、二六七号事件被控訴人(以下「第一審原告」という)

小林栄次

右訴訟代理人

堂野達也

堂野尚志

土方邦男

昭和五五年(ネ)第二、二六七号事件控訴人、

同年(ネ)第二、三八〇号事件被控訴人(以下「第一審被告」という)

右代表者法務大臣

坂田道太

右指定代理人

一宮和夫

外五名

主文

一  第一審原告の控訴に基づき原判決を左のとおり変更する。

1  第一審被告は、第一審原告に対し、金二一三〇万一〇四二円及び内金一九八〇万一〇四二円に対する昭和五一年五月八日から完済まで、内金一五〇万円に対する本判決確定の翌日から完済までいずれも年五分の割合による金員を支払え。

2  第一審原告のその余の請求を棄却する。

二  第一審被告の本件控訴を棄却する。

三  第一審被告の控訴費用は同被告の負担とし、その余の訴訟費用は、第一、第二審を通じ三分し、その二を第一審原告の負担とし、その一を第一審被告の負担とする。

四  この判決の一の1は仮に執行することができる。

事実《省略》

理由

一不法行為の成否について

1  第一審原告は、附帯控訴に基づき本件審判の順位の変更を申立て、主位的に不法行為に基づく損害賠償を求めるので、まず第一審被告につき不法行為が成立するか否かについて判断する。

2  本件事故の発生及び事故発生に至る経緯についての当裁判所の認定は、左記のごとく付加、訂正するほかは原判決の認定と同一であるから、原判決理由第一、二項(原判決一四枚目表二行目から一八枚目表三行目まで)をここに引用する。

(一)  原判決一四枚目表七行目の「古川隆男」の次に「、当審証人大沼直躬、同小高通夫」を、同八行目の「原告本人尋問の結果」の下に「(原、当審)並びに弁論の全趣旨」を加入し、同一八枚目表二行目と三行目の全文を削除する。

(二)  同一六枚目裏三行目の「手術台兼診察室」を「手術台兼診察台」と改め、同一七枚目表八行目から九行目の「右切開後組織検査のための組織片を採取する際誤つて」を「右腫瘍を摘出することとし、その際周囲の健常部分をも切除し、」と改める。

3  前記のように古川医師が神経線維まで切断したことについて、前記古川、大沼証人は、「皮膚切開後の所見によれば、本件腫瘍は、紡錐形であり、硬く、可動性がなく腫瘍の部分と健康(正常)な部分との境界が必ずしも判然しないこと等を認め、また古川医師において腫瘤が最近急に大きくなつたと考えていたところから、本件腫瘍が悪性のもの(ないしその疑いのあるもの)であると診断し、組織検査のための腫瘍の一部切除は腫瘍の他の正常部分への転移増大、ひいては生命へ重大な危険をもたらすものと考え、根治手術をも目的として腫瘍全部を摘出することとし、そのうえ視診と触診によつて腫瘍部分と神経軸索が強固に癒着してこれを切離することが困難であると認め、神経そのものである線維を含む軸索を切断(欠落)することもやむなしと考え、古川医師において腫瘍部分全部のみならず正常部分を含むその周辺を一体として切除摘出し、その結果として神経線維を切断したのである。」旨交々証言する。しかしながら

(一)  記認定のとおり、第一審原告の腫瘤は手術時の所見により神経鞘腫であることが判明しているところ、〈証拠〉によれば、成書には、神経鞘腫は頸部腫瘍中通常良性腫瘍としてあげられ、悪性化することは殆どなく、重要な神経器官を犠牲にしてまでの摘出はすべきでない旨記載があり、〈証拠〉によれば、同旨の臨床報告例が存し、証人大沼の証言によれば、神経鞘腫の悪性化頻度はせいぜい一ないし三パーセソトであるというのである。そして〈証拠〉によれば、本件腫瘤には術後の病理組織検査により悪性化の像はないことが確認されている。その上、〈証拠〉、証人小高の証言を綜合すれば、神経鞘腫の紡錐形、硬い、可動性なしの症状はいずれも悪性の特徴とはいえず、却つて良性の神経鞘腫によく見られる症状であることが認められるのであり、〈証拠〉及び証人古川の証言によれば、本件腫瘤は表面が非常になめらかで、カプセル様のもので被われており、第一審原告は痛みなどは訴えていなかつたことが認められるが、〈証拠〉によれば、右の如きは一般に良性腫瘍のメルクマールとして成書に「表面平滑」「被包良好」「無症状」と記載されていることに合致するものであることが認められる。また本件腫瘤と周囲の組織との関係についても、古川証言によれば、本件腫瘤と周囲の癒着はなく、他の組織に浸潤している像は見られなかつたというのである。更に、〈証拠〉及び古川証言によれば、本件腫瘤は昭和五〇年九月二六日鈴木病院において発見されて以来、翌昭和五一年五月七日の手術時に至るまで、鈴木医師から千葉大病院宛の紹介状、千葉大病院診療録には一貫して「小指頭大」と記載されており、手術時の所見によるも小指頭大といえる程度のものであつて、短期間に急激に増大したものとは認められず、佐藤教授が前記のように組織検査を決定、指示した昭和五一年五月四日の診療録にも「腫瘤に変化なし?少し増大か?」と記載されているに止まることが認められる(古川証言によれば、古川医師は本件手術当日初めて第一審原告に会つたもので、当日も腫瘤の大きさの変化について問診はせず、前掲証言にあるように本件腫瘤が最近急に大きくなつたとの考えは、当日看護婦から、佐藤教授が本件組織検査を指示したときに、患者が最近腫瘤が急に大きくなつたようだと訴えていたからだといつた趣旨を聞いたことによるものと認められ、重要な判定基準とした割にはその調査としては極めて杜撰というほかない)。

以上を綜合考察すれば、本件腫瘤が手術時の所見から直ちに悪性を疑うようなものであつたとは到底認められず、本件神経鞘腫を悪性のもの(ないしその疑いのあるもの。以下同じ。)と診断した旨の古川、大沼証言はたやすく措信し難いのみならず、仮りに右両医師がその証言するように本件腫瘤を悪性のものと診断したとすれば、診断上の注意義務を欠いた過失があるものと認めざるを得ない。

(二)  千葉大病院の検査態勢を見るに、証人古川の証言及び〈証拠〉によれば、本件の如き組織片の病理組織検査については、通常一〇日間位を要するが、本件については大至急という依頼つきで二日で結果を得ているのであり、また右証言によれば、凍結切片法によると二〇分位(但し、大沼証言によると、当時の機械の性能からして六〇分位という)で結果を知り得ると認められるところ、軟部組織であるが故に右方法が絶対に採り得ないということも認められないから、前掲古川、大沼証言にあるように欠落症状という重大な障害が予測できたというにもかかわらず、右の如き検査方法を採らずに直ちに腫瘤全部を摘出する、しかも周囲の健常部分を含めて切除する特別な緊急性は認められないのである。たとい古川、大沼証言にあるように本件腫瘤を悪性のものと診断したとしても、組織片を採取しての検査による右の程度の時間を経て後に根治(摘出)手術を行うことが、腫瘍の増殖、転移を招く危険あるものと認むべき的確な証拠はない(〈証拠略〉)。

そして、前記のように本件の場合、組織検査の結果、悪性化の像はないことが確認されていることに徴し、且つ手術時の所見からも悪性化を疑う根拠は認められないことに照らせば、組織検査を命ぜられた古川医師としては、本件腫瘤の所在場所が腕神経叢など重要な神経叢が存在する場所であるから、組織検査のため前記のような組織片採取の過程を採らずに直ちに腫瘤を全摘するにしても、右神経を損傷することのないように注意して執刀すべき義務があり、摘出により欠落症状を惹起する虞れを免れないのであれば、前記成書等の記載の如く、そのような摘出をなすべきではなかつたのである。

しかるに前記古川証言によれば、古川医師は神経切断による欠落症状を予測しながらも前記の如き本件手術を施行したというのであるから、その執刀上に過失あるものと認めざるを得ない。

(三)  のみならず、仮に両医師が本件腫瘍についてその証言の如く強く悪性を疑い、神経切断による欠落症状ひいては左上肢の運動(機能)障害というひとりの人間にとつて将来の運命を決するほどに重大な結果を招来し、そしてまた当然神経移植手術を必要とすることを予想しながら本件全摘手術に踏み切つたにしては、前掲証人古川、大沼、小高の各証言、第一審原告の供述及び弁論の全趣旨によつて認められるように、千葉大病院においては、中央手術部システムがとられ、各科による同手術室の使用には事前の手配を要するところ、当日第二外科においては右神経移植手術のため手術室の確保等の準備は全くなしておらず、第一審原告に対し即日帰宅でき入院の必要はない旨繰返し告げていること、そして、本件手術は第二外科の外来診察室において行われたものであるが、同診察室における手術は外来患者の比較的軽微なものに限られていたこと、古川医師は本件摘出手術終了後直ちに摘出した腫瘍(検査のための標本)を持つて別室に赴き、右上肢の神経切断、運動障害にさしたる配慮、関心を示さなかつたこと、さらに、本件手術後の千葉大病院の対応を見るに、大沼医師、看護婦の指摘で第一審原告の左腕の機能麻痺を発見した古川医師は、直ちに他の手術中の小高助教授に相談に行つて指示をあおぎ、さらに脳神経外科の山浦医師に診断を依頼し、神経移植手術を示唆されるや、出張中の佐藤教授に連絡をとり、即日第一審原告を入院させ、小高助教授の手術終了をまつて直ちに右移植手術を行ない、その経過に徴しても千葉大病院が全く本件事故の発生を予測していなかつたものであることなど、その準備・対策、患者に対する説明とその承諾のとりつけ等いずれも杜撰、不十分というほかなく、これらの点からしても、第一審被告が主張する如く、本件手術において神経切断が必然的に随伴し、避けえなかつたものであるということについては強い疑念を持たざるをえないのである。

4  以上のとおり、本件事故の発生については古川医師に本件診断あるいは手術施行につき過失があるところ、古川医師は第一審被告の被用者として千葉大病院に勤務し、本件事故は第一審被告の診療業務を執行するに付き惹起したものであることは前認定事実によつて明らかであるから、第一審被告は民法七一五条に基づき後記第一審原告に生じた損害を賠償すべき義務がある。これに反する第一審被告の主張はすべて採用できない。

二損害〈省略〉

三以上によれば、第一審原告の本件請求は、右に認定した不法行為に基づく損害賠償金二一三〇万一〇四二円及び内金一九八〇万一〇四二円(弁護土費用を除く他の損害の合計)に対する本件不法行為の翌日である昭和五一年五月八日から完済まで、内金一五〇万円(弁護士費用)に対する本判決確定の翌日から完済までいずれも民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容すべく、その余は失当として棄却すべきものであ〈る。〉

(田中永司 安部剛 岩井康倶)

損害額の算定について〈省略〉

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